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saya

 

幼少期よりダンスを始め、初期「杏仁豆腐」メンバーとしてJDD出場。NYでHIP HOPに出会い、以降「SAYA&RIE」そして「VIGOROUS LADIES」といったチームで東京アングラシーンを中心に活躍。強烈な個性とバイタリティーで現在も高い人気を集めるフィメールダンサー「SAYA YAMAMARU」にインタビュー。


ーダンスを始めたキッカケを教えてください。
母がモダンジャズダンサーだったんですね。私は生まれが奈良なのですが、エアロビとかショーでママと一緒に踊ったりしていて、それが5歳くらいなんで、その頃から踊り始めてますね。うちはお金持ちでは無かったんですね。親が離婚して母と私は千葉に引っ越すことになったんですが、ダンスを踊らせてあげるお金がないと言われたんです。けど、当時私はダンスがしたかったので「学校行くよりもダンスがしたい!」って言ったんです。そしたら「それだったら新しいお父さんが必要よ」て言われて。それに対して「じゃあ私のお誕生日のプレゼントでお父さんをちょうだい!」って言ったんですよ。そしたら本当に誕生日近くの日にお父さんを連れてきたんです!驚きましたよ!それから間もなく神奈川に引っ越す事になりました。小学3~4年くらいの事でした。神奈川に引っ越してからダンスを習い始めました。最初はLOCKINGを習ってました。当時はチームとかやってなくて1人で出ていくしかなかったので、「RAVE2001」っていうテレビ番組がスタートした時、あの番組は2人以上のチームしか出れないんだけど、1人でオーディションを受けてたんですね。そしたら審査員の「浅川先生」に「あなた凄いよ」って言ってもらえて。「あなたの体型ならジャズをちゃんとやった方が今後色んなジャンルにいい意味で影響するから」って言われて、そこから5年間ちゃんとジャズだけを習いに行きました。バレエ、ジャズ、モダンが入っている教室に入ってレオタード着て習ってました。そのスクールに通っている時にオーディションがあって、受けてみたら通って、それで芸能活動を始めることになったんです。R&B系のボーカルユニットみたいな感じだったんですが、どんどん忙しくなっちゃって、中学もほとんど学校に行けないくらいでした。ずっと合宿でトレーニングやらされてて、ダンスからも遠ざかっちゃって。そういった活動もグループの解散を機に芸能活動をやめて、ちゃんとダンスが出来るようになったのが高校生の時でした。その時は正直焦りがありましたね。自分が芸能活動していてちゃんとダンスを出来ていなかった頃、ダンスを頑張ってる人達は沢山練習し続けている訳ですからね。だから自分はとにかく追い付かなきゃって気持ちでいっぱいでした。

ー高校時代に「杏仁豆腐」としてダンスアタックに出てましたが、「杏仁豆腐」のメンバーとの出会いはいつごろですか?
芸能活動を始める前から「相模大野駅」の駐車場で練習をしてたんです。その頃に出会ってるんで、「MIZUE」とか「ERI」は出会ってから長いですね。実は芸能活動中も事務所に内緒で練習してました。その場所で「RIE」にも出会ってますし、色んな人が集まってました。当時はバイトを4つ掛け持ちしながら踊ってましたね。

ーバイトを4つですか!?なかなかキツかったんじゃないですか?
でも、親に芸能活動をする時とかに結構お金を出してくれていたから、芸能活動をやめてもそのまますがりつくってのは流石に都合良すぎるだろうって思って、高校1年の時に沢山バイトして、高校2年になったら1人暮らしを始めて、自分でやっていこうって決めて、結果そうなりました。学校行きながら、バイトしながら、ダンスしてた訳ですが、全然苦じゃなかったですよ。睡眠時間は少なかったけど、とにかくダンスしたかったし、本当に楽しかったんですよね。

ー高校3年生のラストアタックで「杏仁豆腐」は特別賞だった訳ですが、「杏仁豆腐」としてダンスアタックに出始めたのはいつごろですか?
最初は高2の時「survive」ってチーム名でMIZUEと2人で出たのが最初ですね。ERIは年が離れていて一緒には出れなかったんです。ラストアタックの時は「杏仁豆腐」名義で出て特別賞になったんですが、とにかく悔しくて凄く泣いたのを覚えてますね。その悔しさもあり、ディライトに挑戦しよう!ってなりました。それから「杏仁豆腐」でJDDに初めて出た後抜けることになります。

ー杏仁豆腐を抜けた理由っていうのは何だったんですか?
ヒップホップをしたいという想いが強かったというのが大きかったですね。実は高校の時、NYに行ったんです。ジャズをしっかり習いたくて行ったブロードウェイのダンススタジオで「ブライアン・グリーン」に会ったんですが、この出会いは大きかったです。彼は生き方としてのヒップホップを学びました。彼の言葉は当時の自分にグサっと刺ささるものでしたね。それで、ブライアンに今までの自分のダンス人生を話したら、「ジャズダンサーっていうのは根っからジャズダンサーだからゼロから今までずっとジャズをやってるはず。けどSAYAの場合はきっと違う。あまり硬く考えるな。ダンスは音楽あってのものだから、音楽をもっと知ったほうがいい。音楽へのアプローチを深めていけば行くほど人生が見えてくるよ」って言われたんです。その時にヒップホップの歴史や、それまでの自分の人生などが全てリンクして、ヒップホップが好きになっちゃったんです。ニューヨークから日本に帰って来てから、誰にヒップホップを習ったらいいか、何を学べばいいのか分からなくて、また相模大野に戻ってブライアンから習ったことを練習していたりしたんですが、その頃に後々「SAYA&RIE」として一緒に踊るようになる相方の「RIE」と出会ったんです。

ー「SAYA&RIE」といえば2010年前後の時期を中心に精力的に活動してシーンに影響を与える活躍をしていた訳ですが、2人が一緒に踊り始めるキッカケはどういったものだったんですか?
「RIE」はずっとヒップホップをやってて、アタックでも「がつごて」っていうチームで出ていたし、意気投合して一緒に活動し始めました。初期の頃はショーにいっぱい出ていたんですが、お互いにワークショップなど海外の仕事が入るようになって、それからは2人のタイミングが合う時にショーをしてました。私はNYが好きで、RIEはLAで、それぞれ違うスタイルを持っていて、それらを持ち寄って1つのショーが出来る、って感じでしたね。今はあまり活動していませんが、SAYA&RIEは解散した訳ではないんです。全然違ったスタイルでダンスも聴く音楽も違うんですけど、なぜか合うんですよね。だから今も練習できる時に一緒に練習してたりします。

ー近年は「VIGOROUS LADIES」で活躍し、昨年はJDD VOL.22 FINAL出場も果たした訳ですが、この「VIGOROUS LADIES」について教えてください。
チーム結成当初、やるなら大きな事にチャレンジしようって事で、まず「DANCE@HERO」にチャレンジして、結果準優勝だったんですよね。その時に優勝したのは「Beat Buddy Boi」だったんです。「Beat Buddy Boi」って、個々が全然違った個性を持った7人が一つになって更に素晴らしいものが生まれる、というチームだと思うんです。チームってそうあるべきだって思って、自分たちもそうなれるように頑張らないといけないなという事で、新たな目標としたのが「ダンスディライト」でした。ディライトではあくまで「優勝」にこだわってました。優勝して私達のヒップホップをダンスディライトを通して一般の人にも知って欲しかったし、ヒップホップを好きになってもらいたい。だから勝ちたかったというのがあります。結果が必ずしも大事じゃないって言う人もいると思うけど、私にとっては結果があることで自信に繋がるし、下の次世代の子たちに未来を与えられる。だから結果を残すことは大事だって思ってディライトに出まくってました。大阪行ったり名古屋行ったり。でも審査員の方には同じことを言われるんですよ(笑)。だからそういったところで学んだ事もありました。けどJDD FINAL出場後、私は「VIGOROUS LADIES」を抜けたんです。「VIGOROUS」は「世界共通でかっこいい」という意味でつけたんですね。私という存在に縛られず、個々それぞれがより輝いていって欲しい、格好良くあって欲しいという願いがあって抜けたんです。色々話し合ってみんな納得した上での話なので、トラブルがあって抜けたとかそういうのじゃ全然ないです(笑)。なので今も「VIGOROUS LADIES」は存在してますよ。

ー「SAYA」さんはあまりバトルに出ているイメージがないのですが、バトルに出ない理由を教えてください。
バトルに出る理由があれば出ると思うんですけどね。この人とは白黒つけたいとか、バトルしたいって人がいれば。けど、そういう理由が無いからバトルには出ないですね。正直思うのは、自分はNYに行ってヒップホップと出会って、ヒップホップミュージック、ブラックミュージックっていうものにハマった訳なんですが、日本のヒップホップバトルってビートミュージックが多くて、自分が聴いてきたヒップホップミュージック、ブラックミュージックといった曲がかからないからってのもありますね。だから、そういった部分で今のバトルシーンに自分が乗っかっていけない状況にあるという感じです。

ー今後の展望について聞かせてください。
来年に夫と共に、町田に服屋とレコード屋が入ったダンススタジオを作りたいって思っていて、もう動いているんです。ヒップホップを軸にみんなが集まれる場所を作りたいんですよね。東京にはスタジオが沢山ある訳なんですけど、ヒップホップってスタジオだけでは成り立たないと思うんです。ファッションや音楽を通して表現するものなんだよって事を周りに響かせたいんですよ。ヒップホップってダンスだけじゃなくて、ラップやDJ、グラフィティーはもちろん、ファッションもそうだと思うんです。町田ってヒップホップカルチャーに根ざしてる人が結構いるので、そういう人達も集まるようなそんなスタジオになればなって思ってます。今の子達って「ヒップホップって何?」って聞いたら答えられない人がいっぱいいると思うんですよ。日本ってもともとカルチャーがあった訳ではない場所だから、カルチャーに触れられるような場所にしていきたいですね、次世代を担っていく若い子たちの為にも。ヒップホップがテクニックダンスっていう捉え方のみになってしまわないように、根本として必要なモノをカルチャーを通して理解してもらいたいなって思ってます。

ーありがとうございました。