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YO-SUKE_INT

広島を拠点に活動するベテランダンサー「YO-SUKE」。様々なオールドスクールダンスを踊りこなし、52歳となる現在も多くのバトルにエントリーしている現役ダンサーであり、「FUNK NATION」のオーガナイズやレッスン等、広島を始め西日本のオールドスクールシーンへの強い影響力を持っている。そんな彼にインタビュー。オールドスクールダンサーは特に要チェックだ!

PROFILE
YO-SUKE (Quiet Storm/Hiroshima Gangsta)
52歳 (1964年生まれ)
1970年代、TV番組SOUL TRAINの影響で音楽やダンスに目覚める。80年代初頭からショー等のダンサー活動を始める。本場LAで多くのオリジネーター、また、日本のレジェンドの方たちに師事。そして現在もプレイヤーであることにこだわり、国内外のバトルで数々の実績を残している。また、広島を拠点して若手の育成やストリートダンスの発展に尽力している。


ーまずダンスを始めたキッカケを教えてください。
ダンスを始めたというよりは、子供の頃(子供の頃の記憶が断片的なので、多少時代のズレがあると思うのですが)、親に隠れて観ていた深夜の「ソウルトレイン」や、ソウルトレインダンサーが出ている「BLACK50」や、コーヒービートのCMとか、当時黒人のダンサーが踊ってるCMが多く放映されていて、それを見て「カッコイイな」と子供心に感じました。そして音楽とかにも興味が湧き、家で踊ったりとか、…時効なんですけど中学の頃、先輩にディスコに連れて行ってもらい、それからはまってしまいました(笑)。

ーでは小学生の頃からダンスに興味を持っていたのですね?
そうです。ぶっちゃけ踊るとモテるんですよね。だから楽しいなと思って(笑)。

ーダンスの情報はどうやって仕入れていたのですか?
その当時はディスコではステップが流行っていて、大体みんな一斉に同じステップを踊るんですが、そんな中でも上手い人はフリーダンスを踊っているんですね。ロボットとか。当時「Teddy Dan」さんがテレビによく出ていた頃で、Danさんの真似をしたり、ディスコの主(当時は各ディスコに主が居ました)の踊りを研究したりしてました。皆は流行りのステップを踊るのですが、その後にフリーで踊っていたら「おっ、やるじゃん」みたいな、それがクセになっちゃったみたいな。

ーそれで大人になってからはどういう流れなんですか?
そこなんですが、僕は結構早く仕事についていて、話しは前後するんですが、最近よくバトルに出ていて「凄いな!」と言われるんですが、実際は皆が頑張ってる若い頃、僕はあまり頑張ってないんです。というのも飲食業に入って、料理人をやっていました。だから土日はもちろん休みが無いんですよね。だから踊りに行くのは平日の深夜というのがずっと続いていたんです。踊りは好きでずっと携わって行きたいと思っていたので、踊りにはずっと行ってました。そして暫くするとブレイクダンスが入って来て、ディスコやストリートで出会った仲間達とチームを組み、82年辺りからショー等の活動を始めました。

ーその頃はどんなダンスを踊っていたのですか?
広島は特殊で岩国に米軍基地があって海軍の人が広島に来て踊ってたんですね。だから黒人のノリとか新しいステップが入るのが早かったんですよ。そういうのを黒人に教えてもらったりとか、「ハーキュリー」に教えてもらったりしてました。POPにしても今みたいなスタイルじゃなくて、ウェーブがメインのパフォーマンス的な感じでした。そしてロッキンとブレイキンもちょっとやってました。

ーその頃も料理人ですよね?
はい。でもその後自分で商売を始めて店を2軒くらいやってたんですが、それで自分の時間も持てるようになって、その頃から周りに人が集まって来て、「教えて下さい」とか言われて、そっちの活動をし始めました。27、28歳くらいの頃です。今で言う練習会みたいなものです!その後「ハーキュリー」達とチームを組み始めたり、活動の幅も増えて行きました。

ーダンスレッスンも始めたのですか?
それはやってなかったです。おこがましいです。

ー今はされてますよね?
はい今はやってます。WAACKINGとPOPPINGとLOCKINGとDANCE BASICをやらせてもらってます。広島には全ジャンルを教えるという人があまりいないので、自分で歴史なんかも勉強して下の子に伝える、ということをやっています。

ーレッスンを始めだしたのはいつ頃ですか?
35歳位からです。ダンスを見て感動して、真似して習っていたのは広島の先輩方とか「せっちゃん」とか「ハーキュリー」なんですが、色んな事を教えてもらったのは大阪の「チェリー」さんです。そして「チェリー」さんを通して知り合った「スキーターラビット」が日本に来て仕事が無い時は、わざわざ広島まで来てくれてうちに泊まったりして踊りの事とか色々話したり、一緒に練習したり教えてもらったりしてました。なので知識は凄くあったんです。それで自分の事だけを考えていていいのか、ということを35歳あたりから考えて、広島の後輩達に多少なりともある知識を伝えて行くべきじゃないかという気持ちで始めました。

ー最近はバトルにもよく出られていますが何歳位から出るようになったのですか?
50歳を目の前にして自分の中で選択があったんです。プレイヤーとしてやっていくか、知識や経験を伝えて行くか…。以前スキーターラビットとも「死ぬ迄踊ろう」と約束したのもあって、じゃあ自分はどうなんだろう!?ダンスを踊るのが好きなんじゃないか!と思って。もう一回プレイヤーとしてやっていきたいなと思いバトルに出始めました。49歳からです。

ー49歳でバトルデビューですか?! 凄いですね。どんなバトルに最初は出たのですか?
確か大阪のロックのバトルでした。Hook upも出ましたし、OLD SCHOOL NIGHTにもその頃から出ています。最初はLOCKに出ていました。で、最初はナメてたんですよ。1年くらいしたら自分のイメージするダンスが踊れるようになると。ところがバトルに出て自分の動画を見るようになるじゃないですか。そしたらこれは俺じゃねえわ、みたいな。あまりにもギャップが大きかったんですね。当時100kgを越える位太ってましたし。それでジムに行って絞ったりしました。

ーちなみに今は何kgなんですか?
今は85kgまで絞りました。あまりにも動けて無いんで怖くなったんです。ジャッジとかして語ってた自分が恥ずかしくって、これじゃ説得力も何もないなと。それで頑張るようになりました。まだまだなんですけど・・・最初は1年間LOCKに出て、その次はPOPに出て、そしてWAACKに出ようと思ってたんですがLOCKが思いのほか自分の理想に近づけなくて・・・けど、まだまだバトルにも出て行きますよ。

ーバトルの練習というのはされてますか?
バトルに関してはイメトレの方が多いですね。80年代の頃、日本人は「形」があってその「形」を音にはめこむというスタイルだったんですね。でも40歳を過ぎて考え方が変わって、ストリートダンスって音楽があって、その音楽に色々なものをもらいながら身体で表現するものじゃないかな、と考えが変わって来たんです。大技も音楽によって出て来るものじゃないかなと思うんです。確かに表現していくのに色んなトレーニングやベージックな練習は絶対必要だと思うんですが、なんとなくそう感じるんです。自分が太っていた時にジャッジムーヴとかショーのソロの後に「今日は乗らなかった」とか「今日の音はちょっと・・・」とかよく言ってたんですよ。でもそれはダンサーが一番言っちゃいけないことなんですよね。音楽に対して失礼だし、その音楽に自分が入れなかったって事なんですよね。結局自分のスタイルをその音楽にはめこもうとするから乗らなかったとか音楽が悪かったとか言ってたんですよね。でも音楽に色々なものをもらっていけばそれが出来るのに、それが出来ていなかった自分に気づいた時に今迄いろいろ恥ずかしい事や、偉そうな事言ってたなと思って。だから踊り方も変わったし、若い子達の踊りからも色々なものをもらえるようになりました。
やっぱり自分の中で各ジャンルに色々なこだわりがあったんですね。この曲ではロック踊れねえだろとか、あの踊り方はロッキンじゃないよね、みたいな考えが凄くあって。でも色んなジャンルに共通すると思いますが、それを言っちゃうとそのジャンルの発展が無いなと思って。

ー若い時はタブーがないですからね。
そうなんです。でもそれがストリートダンスの魅力なんですよね。もちろん歴史も大事だし、こだわりも必要なんです。でもそれは昔の音楽で踊る時にこだわってくださいよと思うんですよ。昔の音で踊る時に昔の雰囲気を出せればカッコいいと思いますしね。でも新しい音の時は新しいフィーリングで踊れるようになりたいです。

ー広島で「FUNK NATION」を開催されていますがいつ始めたのですか?
2006年からなので10年前ですね。その前から小さいのはちょこちょこやっていて、当時チェリーさんから「P-1」をやらないかと勧められたんですが、先ず冠のあるイベントは迷惑をかける可能性があるので、自分なりのイベントをやりますと言って始めました。それが「FUNK NATION」です。まずはPOPバトルから始めたんですが、最初はエントリー30人くらいで、3ヶ月連続開催して3回目にやっとLOCKを入れたんですよ。「スキーターラビット」にジャッジに来てもらって。それでもそんなに集まらなかったんです。何故それでも続けるかと言うと、広島は所詮「地方都市」なので、色んな県の色んな若手や、先輩の踊りを見る機会があまり無いんです。なので県外からジャッジを呼んで、自分でも色々な地方に行って沢山の人と友達になって広島に来てもらって、広島の若い子達に色んな踊りを見せてあげたいな、という思いが一番大きかったですね。

ーWAACKバトルを入れたのはいつですか?
WAACKは2007年に始めました。「DJ BATSU」さんに「WAACKのバトルもやっちゃえば」みたいに言われたんですよ。当時は火が消えていたWAACKを「Rm sister」が最注目させた時ですね。DANCE DELIGHTでも大活躍してましたし。それでYASCOちゃんとかとも仲よかったんで、じゃあやってみようかということになって始めました。Rmの二人もバトルに出に来てくれました。色んな地方の子達もそうですね。そこで皆と仲良くなれました。

ー先日のOSNのWAACKバトルにも出ていましたがどうでしたか?
OSNに参加しだして3~4回目なんですが、ある種他のバトルイベントとは違うんですよね。なんとなくお祭り的な。色んな地域の人と会ったり、バトルだけじゃない楽しみがあるんですよね。そんな中にWAACKが入ったのは凄く喜ばしい事だと思うんですよ。僕自身WAACKバトルに出て楽しかったですし、欲を言えばもっと上迄行きたかったですけどね。でも色んな人の踊りを見て色んなものを感じました。

ー海外のダンサーも沢山出て、活躍していましたが、ああいうスタイルをどう思いますか?
もちろん凄いなと思います。感情を音楽に乗せるのが凄く上手いなと思いますし、そこにこだわっているというのが凄く解って、ああこれが彼らの思うWAACKなんだな、ゲイのコミュニティーの人が考えるWAACKはこうなんだろうなと思いました。

ー広島のシーンについてどう捉えていますか?
広島のダンスシーンって70年代~80年代にかけて凄く活発だったと思うんですよ。日本の中でもトップとは言わないですが、結構注目されていたんですよね。80年代は武者修行じゃ無いですけど色んなところから広島にダンスの勉強に来る様な街でもあった訳なんです。そういう広島の背景がありながらも僕たちの世代がちょっとさぼっていて結構衰退していったところもあるんです。だからこれからは広島の若い子達が色んな県に出て行って、また色んな県の人達が広島に来てみたいな色んな繋がりが広がって欲しいです。でもやっぱり出ない子達もいるので、そんな子達が考えを変えていけるように自分も色んな県から来てもらえる様なイベントを主催して、自分のコミュニティーにしがみついてるというか固執している人に刺激を与えたいですね。もっと広い世界を見てその人達のダンスライフが豊かになるようにやっていきたいです。
あと伝えたい事があって、例えば広島には「せっちゃん」という大先輩がいて、今の若い子達は踊りを見た事が無い人もいたり、顔も名前も知らない人達もいるかも知れないです。でも知らなくても広島でダンスをしている、大袈裟に言えば日本でダンスをしている人達は絶対に「せっちゃん」をはじめとした先輩方の恩恵は受けているんですよ。僕自体も「せっちゃん」とは30歳を過ぎてからチームに誘って頂き、一緒に踊れる機会をいただいたんですが、それまではずっと憧れの方でした。実際に手取り足取り教えてもらった訳ではないんですけど、県外に行くと「あっ、せっちゃんとこの子」という感じで、色んな先輩に可愛がって頂き、自分のコミュニティーが凄く広がったんですよね。「チェリー」さんと話しが出来るようになったのも、「団」さんと話しが出来るようになったのも「せっちゃん」のお陰だし、「せっちゃん」の先輩方のお陰でもある訳ですよ。「YOSHIBOW」さんにもよくしてもらいました。それで僕がよくしてもらった事を若い子がまた受け継ぐ訳じゃないですか。それはやっぱり僕らの先輩がいて道を作ってくれていると言う事で、色んなダンスシーンが今でも継続していると思うんですよね。そういう事に感謝の気持ちを若い子達にも持っていて貰えたらなぁと思います。

ーなるほど、熱い言葉ありがとうございます。またダンサーとしては一生現役という想いですか?
もちろんです。死ぬ直前まで踊っていたいです。

ーありがとうございました。